沖縄で戦死した次兄の戦跡をたずねて(その3〜「51・7高地戦闘」)

 「安里高女師校跡」を確認した私は、那覇市庁舎の市史編集室をたずねた。「△51・7高地戦闘」を調べて欲しいとお願いすると、米軍資料や防衛庁資料を出して克明に調べてくれた。「△51・7高地」とは米軍が「シュガーローフ・ヒル」と呼び、日本軍が「52高地」と名づけた安里北側台地の一角に違いないとのこと。「シュガーローフ・ヒル」戦闘は、沖縄地上戦最大の激戦であったという。私は沖縄を去る最後の日にこの丘をたずねた。この丘の頂上から北側は米軍住宅に接収され、大きい用水タンクがおかれ金網が張られていた。南側のなだらかな斜面 は造成され静かな住宅団地となっていた。この日は時折、強い雨が降った。沖縄では五月中旬には雨季に入る。恐らくこの「シュガーローフ・ヒル」の戦いは泥の中の死闘だったのではなかったろうか。私は心の中で合掌した。

  沖縄を訪れたこの時からすでに20年が過ぎている。私はいま改めて当時集めたわずかな資料にもとづいて、米軍の沖縄上陸後の南進の足どりと次兄が所属していた独立混成第15聯隊(沖縄守備軍第32軍、独立混成第44旅団配下)の「行動経過」とを対比させてみた。

  3月26日、米軍は慶良間(けらま)諸島に上陸開始。4月1日に沖縄本島中部西海岸の読谷(よみたん)村、嘉手納(かでな)町、北谷(ちゃたん)村に上陸。「沖縄本島は、空母40隻・戦艦30隻を中心とする1500隻以上の英米連合艦隊艦船に包囲され、猛烈な鉄の暴風といわれる艦砲射撃(約4万発)と1600機に及ぶ空母搭載機による銃撃・爆撃にさらされていた。上陸部隊(第10軍)7個師団18万2,800人、支援海軍部隊を含めれば54万8,000人。太平洋戦争における最大の上陸作戦であった。」4月3日には東海岸に達し、沖縄本島をほぼ南北に分断し、南進を開始した。

  一方、日本沖縄守備軍・第32軍は、首里(しゅり)に司令部を置き首里の北方5キロの牧港(まちなと)ー嘉数(かかず)−我如古(がねこ)−和宇慶(わうけ)という東西を結ぶ線より南の丘陵地帯に集中して構築し、持久戦を構えており、そのため米軍の上陸を許し、その後も大した抵抗をしなかった。

  4月8日、この線に到達した米軍は日本軍の猛烈な抵抗にあった。重砲100門がいっせいに火を噴き、機関銃と迫撃砲の集中放火をあび、とくに嘉数高地では両軍入り乱れての激戦となった。しかし、米軍は4月20日には西の牧港と東の宇和慶を突破した。この戦闘で日本軍の第62師団(1万1,692人)は兵士の半数以上を失い、戦線を全面 的に後退(南へ)させた。この第62師団の補強のために、次兄たちの部隊・独混第15聯隊は島尻郡玉 城村一帯の守備防衛の任務から急きょ、第62師団の指揮下に入って首里・那覇北方安謝(あじゃ)川に進出したと思われる。これが「行動経過」に記録されている4月21日であろう。また、南部の糸満(糸満)・摩文仁(まぶに)方面 にほとんど無傷でいた第24師団を北上させ、東部の戦線に配置した。

  5月4日、日本軍は大規模な反撃に出た。次兄の部隊・独混第15聯隊は独混第44旅団に復帰して、弁ヶ岳・棚原に突進部隊として戦闘に参加したが、この反撃は一日にして大失敗に終わった。「5月4日と5日の二日間の戦闘で米軍側では第77歩兵師団の戦死傷者と行方不明者合わせて717名の犠牲者のほか、第1海兵師団も649名の死傷者を出した。これに対し、守備軍の損害は、戦死者だけでも6,234名に及んだ。しかも、これらの将兵は、守備軍の中でも精鋭中の精鋭であった。結局、第32軍は、兵力の75%を犠牲にしたが、加えて頼りにした砲兵の戦力は半減し、火砲59門は完全に破壊された。米上陸軍は、以後二度と再び守備軍の巨砲の威力に悩まされることはなかった。」

2001/4(定)

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