県庁援護課の記録資料には、独立混成第15聯隊の行動経過が記載されていた。それは次のようなものであった。
昭和19年 7月 9日 〜嘉手納飛行場着
7月11日 〜中頭地区防衛
8月 〜本部半島謝花付近に移動
12月 〜中頭郡諸見里越来村付近陣地構築
昭和20年 1月26日 〜第1中隊の一ヶ小隊(山崎隊)を津堅島に派遣。主力は玉
城村一体の守備防衛に任ず
4月21日 〜第62師団の指揮下に入り、首里・那覇北方・安謝川の線に進出
5月 4日 〜攻勢転移と共に旅団に復帰。突進隊となり弁ケ 岳・棚原に進出
5月12日 〜安里高女師校跡防御配備
5月14日 〜△51・7高地戦闘に参加
5月15日 〜安里北側台地戦闘に参加
5月25日 〜繁多川北側高地へ転進
6月 1日 〜島尻へ転進
6月 5日 〜具志頭戦参加
6月11日 〜大隊は解体の形にて隊長以下斬り込み敢行
(1)昭和19(1944)年7月9日嘉手納飛行場着とは、この部隊 が沖縄に空輸されたということになる。次兄のはがきでも日付は不明だが、「当地到着以来、軍務に精励しているが、東京でも暑いでしょうね。当地も熱い」と記され、夏であることを裏書きしている。なぜ、空輸で船ではなかったのか、を調べてみた。独立混成第44旅団(旅団長・鈴木繁二少将)が昭和19年6月上旬、九州で編成されたが、6月29日に輸送船富山丸で沖縄へ輸送中、徳之島付近で米潜水艦の雷撃で沈没、その主力のほとんどを失った。この旅団の再編要員として急きょ沖縄に空輸されたということのようだ。
(2)次兄の戦死は昭和20年5月13日(公報記載)となっている。この記録によれば、5月12日に「安里高女師校跡防御配置」、そして14日には「51・7高地戦闘に参加」である。5月13日の記載はない。だが、12日と14日の場所が確定できれば、13日の戦闘場所も推定できるだろう。 県庁援護課の女性が「安里高女師校跡地」らしいところにゆく道を教えてくれた。安里の先の「坂下」というバス停で降り、通 る人2〜3人に聞いたが、ある老女が「私はその学校を昭和3年に卒業している。この付近に違いないが見当がつかない。その学校は『ひめゆり』ですよ」と教えてくれた。(「ひめゆり」とは「ひめゆり学徒隊」のこと。沖縄県立高等女学校と沖縄師範学校女子部のおよそ500人の16〜17歳の少女たちが、「ひめゆり学徒隊」の名で従軍看護婦として野戦病院〈洞窟の中〉に送り込まれた。その半数以上の少女たちが、米軍の砲弾やガス弾で殺され、また捕虜になるのを避けるために手榴弾で自決(自殺)した。「ひめゆりの塔」は糸満市字伊原に昭和21年4月に建てられ、合祀柱数は224柱、ひめゆり同窓会が管理している。「いわまくら かたくもあらんやすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」の歌碑がある)
「安里高女師校」とは県立高女と師範女子部のことだったのだ。学校らしい建物が見えたので近くの酒屋さんに寄ったら、これは大道小学校で「安里高女師校跡」と思う、そこの婦連会館で聞いて見なさいと言われた。
婦連会館の中村さんは、この婦連会館と隣の真和志中学校、大道小学校とが「安里高女師校跡」(沖縄県立高等女学校・沖縄師範学校女子部)に建てられたもの。中村さんの教え子のなかに「ひめゆり学徒隊」の女子学生がいたこと、そしてここに座っていても世の中がすざましい方向にゆこうとしていることが分かります。横浜からの国際会議参加ご苦労様、と労をねぎらって下さった。また、沖縄遺族会の事務所を紹介してくれた。遺族会で分かったことは、「松村隊」の松村という人は歩兵中尉で戦死している(日時、場所不明)ということだった。