沖縄で開かれる「核基地をなくす沖縄国際会議」(1981年4月28日〜30日)に参加する機会を得た。私の次兄は沖縄戦で戦死している。母を連れて一度、沖縄の土地を踏みたいと考えていたが、その機会もなく母も81歳の高齢になっていた。母を連れていくわけにはいかないが、この機会に次兄が沖縄のどこで、どんな戦闘で戦死したかを調べたいと考えた。
母にその旨を手紙で知らせると、すぐ返事があった。次兄の戦死の公報には、「昭和二〇年五月一三日、那覇付近で戦死。歩兵上等兵。二四歳」、遺骨箱には名前が書かれた紙片だけが入っていた、とのこと。また、古ぼけた2枚の次兄から来たはがきが同封されていた。一枚は東京の母宛に、沖縄に到着したことの知らせ、もう一枚は海軍兵学校に在学中の私宛のものだ。これは私が復員後、母に渡したもの、母が大事にとっておいた次兄の遺品だったのだろう。このはがきには、「沖縄県那覇郵便局気付 球七八三六部隊松村隊」と記されていた。そして「戦死した場所は探したとて、三十有余年もたった今、無理ですから『福島の塔』へだけお参りしてきて下されば、彼の霊はさぞかし喜ぶことでしょう。私はいつも、夢にて少年時代の彼に会っており、私が病気をすると必ず見舞いに出てくれますから、霊はきっと家の仏壇に来ていることと信じております。」と書かれていた。
次兄の戦跡を探す手掛かりは、この「球七八三六」という符号めいた部隊名だけだ。沖縄へ出発する前に、沖縄県庁援護課に電話を入れてこの部隊の記録があるかどうか問い合わせをしたら、調べておくとのことだった。早速、那覇で行われた会議の合間を見て県庁の援護課をたずねた。そして、調査された資料から次のことが分かった。「球七八三六」とは、「独立混成第十五聯隊」のことで、昭和19年6月24日、千葉県近衛歩兵第十聯隊で組織された部隊であった。(この聯隊は千葉県の佐倉にあり、母と一緒に次兄へ会い〈面 会〉にいったことがある)
部隊編成は、聯隊長・美田千賀蔵大佐、第1大隊長・野崎直彦大尉、第2大隊長・井上清公大尉、第3大隊長・西村信義少佐、工兵中隊長・北村公大尉、聯隊砲中隊長、杉浦隆孝中尉、速射砲中隊長・関井喜雄大尉。
この部隊編成は「沖縄方面陸軍作戦」(防衛研修所戦史室著)によると、「独立混成第15聯隊」は、聯隊人員2,180名、聯隊本部(人員105名)・歩兵大隊3・歩兵砲中隊1・速射砲中隊1・工兵中隊1からなり、 歩兵大隊は大隊本部(人員30名)・歩兵中隊3・機関銃中隊1の大隊人員479名、歩兵中隊は軽機関銃9・重擲弾筒9を装備、人員132名からなっている。また、出身地方は佐倉、東京、甲府、松本、富山、金沢、仙台、新發田、若松、水戸などの混成になっている。そして、第1大隊は大隊本部(佐倉)、第1中隊(佐倉)、第2中隊(東京)、第3中隊(甲府)、第1機関銃中隊(佐倉)となっている。次兄は昭和17年頃、東京で入営しているので、この第1大隊長野崎直彦大尉指揮下の第2中隊に所属したと推測できる。休暇で家に帰ったときに擲弾筒を扱っている、というような話を聞いた記憶があるので、第2中隊の重擲弾筒隊で戦ったのだろう。しかし、「球7836部隊松村隊」の松村隊は不明である。中隊はまた幾つかの小隊に分かれているので、小隊長の名前かも知れない。