8月15日に玉音放送(天皇が直接、ラジオで放送する。天皇は現人神なので、こんなことはかってなかった)が正午にあるというので、下着を取り替え,短剣をつけた第2種軍装で校庭に集合した。直立不動の姿勢で耳を傾けたが聞き取りにくかった。しかし、放送終了時の雰囲気から日本が負けてアメリカに降伏したことが分かった。激しいすすり泣きが起きた。私は一瞬、死を覚悟した。
玉音放送が終わってしばらくしたら、岩国海軍航空隊の「月光」が江田島上空に飛来し、空から生徒あてに「戦争継続に決起せよ」を呼びかけたちらしをまいて去っていった。九州の海軍航空隊責任者であった、宇垣中将は沖縄特攻の電文を発し、部下将兵16名とともに九州の基地を発進したまま戻らなかったと言われている。また、菊水を描いた「八幡大菩薩」の大きな幟(のぼり)を立てた小型の潜水艦が数隻、江田内に入り、士官らがわれわれに軍帽や日本刀をふって、これから出撃する意志を伝えて航走していった。おそらく沖縄へ自爆しに行ったのではないだろうか。
しかし、特別に混乱のないまま、若干の食料と日用品を背負って、生徒たちはそれぞれの故郷に帰っていった。江田島本校、大原分校、岩国分校の75期3500名、小生ら76期3570名、77期3771名、そして新設された予科兵学校生徒78期4049名(防府)。74期(1942年入校、45年卒業)約1000名に比べて、75期以降は粗製乱造の将校生徒だったことになる。
1945年に入って兵学校の生活も大きく変わった。校舎近くにある御殿山に大仕掛けな地下壕を掘る作業が生徒に課せられた。同じ分隊の同期生がトロッコ作業中に事故死し、海軍兵学校葬が行われた記憶が残っている。陸戦の訓練も多くなった。新しく開発されたと紹介された歩兵銃は、銃身はただの鉄パイプで螺旋(らせん)が掘られていないしろものだった。弾は100メートルくらい飛ぶが、どこへ飛んでいくか分からないとのことだった。食事も、兵学校伝統の朝食は食パンに白砂糖、みそ汁であったが、それが粥などに変わっていった。深夜の空襲警報にかなり離れた御殿山の防空壕へ駆け足でゆくのもしんどかった。
江田内には、連合艦隊の精鋭であった重巡洋艦「利根」と軽巡洋艦「大淀」(連合艦隊司令部が慶応大学日吉台に移る前の旗艦)が、燃料不足のためカムフラージュに樹木を甲板に置いて、固定対空射撃砲台として停泊していた。7月24日四国土佐沖に現れた米機動部隊の艦載機群が終日、数次にわたって襲撃し、「利根」は大破沈没・座礁 し、上甲板が海水に洗われ、「大淀」は大破横転し、赤い艦底を露出していた。米機が急降下爆撃を繰り返し、艦が必死に応戦するすさまじい戦闘場面 、血だらけの負傷兵が校舎内に運ばれ応急手当を受けている状況などを、私たちはかいま見た。死傷者は数百名に及んだといわれる。
戦艦「大和」は、1945年始め頃には呉のドックで修理していた。古鷹山の山頂からその巨大な姿を見ることが出来た。70数名の少尉候補生(74期・4月任官)は4月2日「大和」に着任、6日に退艦、即日、兵学校付きに配属された。その頃、連合艦隊司令部は、当時内地に残存していた水上艦艇のすべてである戦艦「大和」と第2水雷船隊の巡洋艦「矢矧」(やはぎ)・駆逐艦8隻で海上特攻隊を編成させ、「大和に死に場所を与える」と沖縄突入作戦を命じた。4月6日、第2水雷船隊9隻をつれた「大和」は、山口県徳山を出て、豊後水道を出たところを米潜水戦艦に発見され、味方航空機の援護のないまま、7日昼の12時40分より米機による大襲撃を受け、午後2時23分大爆発・転覆し海底に没した。「矢矧」と駆逐艦4隻も沈没、4隻が生還した。「大和」乗組員2948名、「矢矧」など乗組員486名が戦死した。{『昭和天皇独白録』によれば、天皇は「海軍は『レイテ』で艦隊の殆ど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた、之を飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。陸軍が決戦を延ばしているのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿ばかしい戦闘であった、・・・これに敗れたら、無条件降伏も亦已むを得ぬ と思った。」と語っている。天皇に「馬鹿ばかしい戦闘」と総括されたのでは、出撃した人びとは立つ瀬があるまい}
このように、戦局は急速に敗戦・降伏に向かっていたのだが、私たちは玉音放送を聞くまで、敗戦を認めて降伏するとはいささかも考えていなかった。ただ玉 砕あるのみ、と戦って死ぬことのみを考えていた。所属していた分隊が解散するときそれぞれ別 れの言葉を述べ合ったが、私は「敗戦・降伏は、この神国に一時的に覆った暗雲にすぎず、必ずわれわれの手で払ってみせる。これからは教育が大事だ」との趣旨を語ったと記憶している。しかし、正直にいえば、上級生徒に理由なく怒鳴られ、殴られる生徒館の生活から解放されるのだという安堵感がなかったといえばウソになる、複雑な心境でもあった。