8・6について

 今日は8月6日。55年前の、午前8時15分、広島に原爆が落とされました。

  当時 私は広島の爆心地からはかなり遠方の、広島県江田島にあった海軍兵学校の2号生徒 (入校は1944年10月)でした。その日は午前中が自習時間ということで、校舎 (4階建てビル)の1階の分隊自習室で(兵学校では1号・2号・3号生徒約40人 前後で1分隊を構成、ちなみに私は105分隊)、2号だけで自習には入っていまし た。突然、マグネシュームをたいたときのようなせん光が(あの頃は、集団で写真を 撮るとき、フラッシュとして写真機のところでボンとたいた)目の前を走り、瞬時を おいて爆音と爆風が吹き抜けました。直撃弾か?と、あわてて机の下にもぐったが特 別のことがないので、外にある防空壕に入るつもりで校庭にでました。そのとき、広 島市の上空には、もくもくと黒い雲(いわゆるキノコ雲)がわきあがりが始めていま した。すでに雲の下の方は赤黒くそまっていました。

 海軍兵学校では、「特殊爆弾」がおとされ、被害が大きいなどと教官から教えられま したが、原子爆弾という科学的な説明はなされませんでした。8月15日、敗戦となり兵学校は解散、8月30日早朝、江田島から船に乗り汽車に乗り継いで(駅不明) 広島駅に着きました。広島駅に近づくにつれて家屋の壊れがひどくなり、市内に入ると焼け野原になっていった、との印象が残っています。

  駅周辺は、いま残っている写真のとおりでした。肉親などの安否を尋ねる「張り紙」 が沢山張ってある掲示板がいくつかあり、包帯を巻いた人々がその周囲にいた、とい う風景がばくぜんとした印象として残っています。その日は暗くなるまで駅に止まり、 無蓋貨車にすし詰めになって上野駅まで来て、常磐線で原ノ町(疎開先)に着きまし た。

 その後、広島・長崎の原爆の惨状の情報は切れ切れに接することがありましたが(占領軍は情報を禁止していました)。1952年のサンフランシスコ条約後、アサヒグラフのグラビアで、初めて公開されました。その衝撃は今でも覚えています。8月30日の数時間、広島駅にいながら全く想像も出来なかったものでした。 これは私の,17歳10ヶ月になった頃の忘れることが出来ない体験でした。

2000/8/6(定)