掘進のための発破(ハッパ)をかけたあと、炭まじりの岩石を炭車に積みこもうと私たち後山(あとやま)がスコップを持った途端、がさっという大きな騒音と粉塵が舞い上がった。天盤のかなり厚い岩盤が坑道いっぱい落ちてきたのだ。私は支柱のあるところまで夢中で後ろへ飛んだ。ドリルを使っていた先山(さきやま)は先端の壁に張り付いて難をのがれた。一瞬、恐怖が体を貫いた。
通常の作業では発破の後、天盤がゆるんでいないかどうか、棒などで天井をつついて出る音で判断していた。コンコンと澄んだ音が出れば安心、濁音が出れば危ない、といわれていた。このとき、それをやったかどうか覚えていない。赤井炭鉱では戦時中の乱堀の後なので、大規模な採炭現場はなく、大きな坑内事故はなかった。しかし、山は荒れており炭車の脱線や切羽(きりは)での落石や落盤などの事故が発生しており、怪我人も出ていたようだった。
この落盤事故の体験は私を動揺させた。「お前はこのままで死ぬことができるか」という疑念が生じたのだ。この疑念をそのままにしておくことは出来なかった。考えることが必要だった。といっても、緊張した重労働の後山では、生活にその余裕はなかった。 しばらくは坑内労働を続けたが、坑外の選炭場での仕事に変えて貰った。選炭場では婦人たちが石炭と岩石とを選り分ける作業をしていた。私の仕事は、坑内から出てきた炭車を選炭場まで誘導して空ける、という集団での作業だった。後山より危険も少なく、労働も軽かった。
少し生活に余裕が出てきた。 旧制中学の同級生で、東京に住んでいる早稲田大学の学生だった友人が、疎開先に隣接する原町に移っていた私の実家へ訪ねてくれた。正月休みで、私も家に帰っていた。その時、汽車の中で読んできたらしい1冊の哲学書を「読んで見ろ」と置いていった。その本はフォイエルバッハという1830年代に活躍したドイツ人の著作で「将来の哲学の根本命題」という、粗悪な仙花紙に印刷された薄いものだった。 選炭場での労働で余裕が出てきたので、親戚から文学全集などを借りて読み始めていたが、この友人の本は難解だったが辛抱強く読んだ。
この本は私の心に生じた動揺、疑念の根もとを鋭く突き刺した。私は考え込み、思念のとりこになった。この本は、キリスト教の神についての哲学的解明が論じられており、ヨーロッパの哲学書を初めて読む私には全く歯が立たない論理の展開であった。だが、「神はわれわれ自身の存在の想像的反映にすぎない」というメッセージを、私なりに直感的に受けとめることが出来た。(後年、この著者は近代ドイツのすぐれた唯物論者であることを知った)
勿論、私の信仰の対象はキリスト教の神ではなかった。それは神格化された天皇であった。「神はわれわれ自身の存在の想像的反映にすぎない」、神とは人間のさまざまな理想や願望を、神という自然をも人間をも超越した存在にまつりあげたものだ、という啓示は、私の素朴な天皇観を直撃した。
私にとって天皇は神であった。だからこそ敬い、その肖像写真(ご真影)や住居(皇居)に直立不動の姿勢で最敬礼を行った。そして、天皇の「しこの御楯」(卑下した言い方で、天皇の楯)になるため軍人を志したのだ。思春期の私にとって天皇は生理的人間、飯を食いトイレにゆく自分と同じ人間としてしか映らなかった。
一方、私の頭の中での天皇は、きわめて抽象的な観念として存在した。生理的人間としての天皇の姿を思い浮かべることは、神としての天皇の存在を冒涜(ぼうとく)し、否定する猥雑な想念として、絶えず強くうち消し、自らを恥じ、責めなければならなかった。明治神宮や靖国神社などに「参拝」しながら、邪念を排し、思念の純化につとめた。私の天皇観は、破局に向かいつつあった戦局の推移のなかで、神としての天皇へますます純化していった。そして、戦争の勝敗も、果 てしない人殺しも、自らの生死もリアルに実感として受けとめる精神状態からますます遠ざかっていた。海軍兵学校では、もはやなにも考えずに、ひたすら将校になるためのきびしい訓練に没頭していた。私の天皇観とは、現実の客観的実在ではなく、自分の頭の中で作り上げた「至高」の存在という想像的産物の反映に過ぎない神、天皇にたいする狂信であった。私の天皇観は崩壊せざるを得なかった。 「いかに死すべきか」が狂信の対象である「現人神」に殉ずるものであった以上、「いかに生きるべきか」、私はこの敗戦後の社会で働き、食べて生きてゆく人間に戻らなければならなかった。
このときはじめて私は、個人として敗戦を自覚した。しかし、私の心の中は荒涼としていた。自分が立っているこの時代がどういうもので、どこに向かおうとしているのか、全く分からなかったからだ。ただ、いまの生き方が間違っていることだけはあきらかだった。時代は、歴史は動いている。この時代を知らなければならない。勉強しなければならない、という思いにかられた。そう決断した私は炭鉱の生活から離脱した。終戦から約1年がたっていた。 私の戦後の生き方を規制した体験的原点は、江田島で目撃した広島の原子「キノコ雲」であり、敗戦後の炭鉱で自覚した天皇観の崩壊であり、そしてもう一つ、次兄が戦死した沖縄戦の様相であった。本土で唯一の地上戦が戦われた沖縄では、天皇の軍隊は住民を戦闘に巻き込むだけでなく、敵視さえしていたのだ。国民を護る軍隊ではなかった。私は沖縄で次兄の戦跡を訪ねる中でそのことを実感した。