10/11 8月末に帰った、常磐線沿線の福島県相馬郡大田村にあった疎開先の家は、父の親戚で、東京にいたときからかなり親交のあった農家のせまい隠居屋だった。両親と小学生の妹がおり、もう一人の妹(長女)は、戦争末期に結核で病死していた。長兄はフィリピンの戦場で生死不明。次兄は5月に沖縄の那覇付近で戦死との公報がすでに入っていた。3兄は海軍より復員していて、大学への復学のために東京に戻ろうとしていた。 東京の家は焼かれたが(3月10日の東京大空襲)、火災保険の金が入ったので当分暮らしてゆける、と父は言っていた。私は母の熱心なすすめもあり、仙台の二高(旧制)と東京の水産講習所を受験(編入)したが失敗した。母校の上野中学(旧制)や旧海軍省に受験に必要な書類の申請などのために、何度か上京した。荒川区町屋にあった家の辺り一面焼け野原であった。かって住んでいた家の焼け跡には、すでに掘っ建て小屋が建てられ他人が住んでいた。かなりの時間並んで手に入れた切符で、担ぎ屋(配給以外に手に入らない、米など闇物資を運んで商売する人)などの客でぎゅうぎゅう詰めの汽車に乗って上野駅につくと、浮浪児たちが群をなして下車した乗客にものをねだってまとわりついてきた。彼らにもってきた弁当(にぎりめし)をやると、私が海軍の服を着ていたので「ぼく、海軍が好きだ」と言った子どもがいたのが、印象に残っている。新橋だったか有楽町だったか、米兵の後を、子どもも大人も物欲しそうに、ぞろぞろついて歩いている姿を見て愕然(がくぜん)とした。焼け跡、地下道に住む人たち、浮浪児、アメリカの兵隊など、田舎では見られない終戦直後の風景だった。
親戚の農家の稲刈り、桑の根起こしや、食料自給のために河原に畑を開墾したりと慣れない農作業をしながら、二〜三ヶ月を疎開先で過ごした。この間、インフレが急速に進み始め、親戚の多い農村にいても日々の食料が入手困難になろうとしていた。「敗戦直後の日本と国土は、惨憺たる状態にあった。45年(昭和20)8月の工業生産高は戦前の(35〜7年平均)の8.5%で、45年末にも13.4%にしか達しなかった。45年の米の収穫予想高は3913万石で、1905年以来の最低であった。交通・運輸はまひしていた。肉親をうしない、住む家を失ったものは数しれず、1300万人もの失業者が街頭にあふれていた。」と言う状態だったのだ。アメリカ(連合国)の軍事占領のもとで、日本の社会は未だ経験したことのない混乱におちいったが、同時に、抑圧されていた自由と民主主義への胎動も聞こえ始めてきた時代を迎えていた。しかし、私は近くに友人を一人も持たず、話し相手のいない日々であり、政治や社会の動きなどのニュースにはほとんど無関心であった。近くにあった旧陸軍の飛行場が解放され、開墾農家が募集されるといううわさに、真剣に関心を持ったりしていた。 その頃、さかんにラジオニュースで“炭鉱で働けば飯が食える、石炭不足で日本経済は困っている”と放送していた。たまたま、遠い親戚が平(現・いわき市)付近の炭鉱の現場監督をしていることが分かった。私は炭鉱で働こう、と即座に心に決めた。炭鉱の労働がどんなものかまったくわからなかった。しかし、地下でのきびしい労働であることだけは想像できた。敗戦を「聖戦の挫折」とうけとめ、いつかは「仇討ちを」という、海軍兵学校解散時の「無念の思い」は消えてはいなかった。天皇へ忠誠を尽くすと言うことは、天皇のために死ぬことが出来る信念を持つことだ。そのためには、自らを心身ともにきたえなければならない。その第一歩を炭鉱で試そう、というのが当時の、18歳の少年の心境だったのだろう。おおげさに言えば、その志は「受難と殉教」によって実証されなければならない、との考えだったかもしれない。